「修理固成」について
「修理」といふ言葉があります。
自動車の修理といふやうに、現在も使用される言葉ですが、古くは「古事記」に記載される言葉です。

「古事記」の中の、伊邪那岐命・伊邪那美命の国生みの場面にこの言葉がでてきます。

天津神が天地が別れたばかりの、まだドロドロしたような世界を、「この漂へる国をつくり固めなせ」と二柱の神に命じますが、この「つくり固めなせ」の漢字表記が「修理固成」となつてゐるのです。

ここでは「修理」といふのは、単に、故障したものを直すといふだけの意味ではありません。堅固な大地を造りだし、人が生活を営む国土を創成するといふ壮大な意味合いも含まれた言葉です。

伊邪那岐命・伊邪那美命の二柱の神さまは、この言葉とともにアメノヌボコと呼ばれる矛を賜り、天の浮橋といふ天空の虹のような橋の上から、この矛をドロドロした下界に差下ろし、コオロコオロと音を立ててかき回して、その矛を引き揚げると、矛の先から滴り落ちたしづくが、固つてオノコロジマと呼ばれる島になりました。

これが「国生み」のはじまりです。このオノコロジマにおいて夫婦の契りを結ばれた二柱の神さまにより、小豆島や隠岐の島、佐渡島などに続き、四国、九州そして本州が生まれ、日本の国土が誕生したということが、日本神話の始りに語られてゐます。

この国土に次いで、二柱の神さまは、岩の神、木の神、海の神、水の神、野の神、風の神、山の神など次々に様々な神々をお生みになります。ところが、火の神をお産みになった時、伊邪那美命は大火傷をして、黄泉国といふ死後の世界へ旅立たれてしまひます。

残された伊邪那岐命は、わざわざ黄泉国まで伊邪那美命を訪ねてゆき、「愛しいおまえと一緒に造つてきたこの国は、まだ造り終へていない。また戻つてきてくれ」と申します。

しかし、黄泉国の食べ物を口にしてしまつた伊邪那美命は、もう帰ることができなくなつてしまったと答へます。ですが、黄泉国の神々と相談してみるから、決してのぞかないでくれと言つて奥の方へ入つていきます。

ところが、その約束を破つて伊邪那岐命が中をのぞいてしまつたために、伊邪那岐命は、黄泉国の醜女たちに追はれ、黄泉国から脱出して来ます。

その後、黄泉国の穢れを落とさうと禊をすると、そこで天照大神、月読命、須佐之男命がお生れになるといふ順序で神話の物語は展開してゆきます。


さて、ここで注目して戴きたいのは、伊邪那岐命が、伊邪那美命に向つて、「まだこの国は造り終へてゐない」と仰せられてゐることです。
伊邪那岐命、伊邪那美命の二柱の神さまが大八洲の国をお産みになったと語られてゐますが、この国生みの物語の時点では、「国造り」は完成してはゐないのです。

それでは、この「国造り」はいつ完成したのでせうか。

天照大神が岩戸からお出ましになったときでせうか。須佐之男命が八俣の大蛇を退治された時でせうか。あるいは、大国主命の業績によるのでせうか。それとも神武天皇のの御即位が「国造り」の完成にあたるのでせうか。


神武天皇から百二十五代目の今上陛下の御代まで、永い歴史が続いてゐます。この間には、平和な時代もありましたでせうが、多くの戦乱や困窮の時代もありました。
そして現代の今日……。

毎朝、新聞やテレビのニュースを見る度に、皆さんはなにを感じられますか。

日本の国内で毎日起きてゐる様々な事件や事故。そして政治や経済の各方面での多くの問題点。これらを見るときに「この漂へる国」といふのは、まさに現実世界そのものだと思はれませんか。

しかも、世界は、大八洲と呼ばれた日本列島周辺に留らず、世界的に拡大し、国内の難題だけでなく、平和や環境問題も含めて課題は、全地球的な問題になつてゐます。


「この漂へる国」を「つくり固めなす」すなはち「修理」して「固成」する仕事は、天神が伊邪那岐命、伊邪那美命に命じられた仕事でありました。
しかし未完成であったその仕事は、暗黙の御命令として天照大神に引き継がれ、須佐之男命や大国主命を始めとする八百万の神々にも引き継がれ、また当然、瓊瓊杵尊から神武天皇、そして御歴代にも引き継がれてきたとみることはできないでせうか。

そしてさらに、それを引き継ぐ責務を負つてゐるのが、私たち神国の国民(くにたみ)ではないでせうか。
「まつり」「祭」であると同時に「政」もまた「まつりごと」であることはよく知られてゐるところです。

それは「修理固成」により平和で豊な民のくらしを実現することが、神々の意志であり、その神意を祈りにより具現するのが「祭」であり、さらに制度により実現を期するのが「政」なので、本来、表裏一体のものと言へます。

私たちが、常日頃、近隣の人々と協力して、小さな社会奉仕に心掛たりしてゐるのも、この「修理固成」をめざす神々の意志の継承であり、それは生活のなかの「祭」であると同時に「政」の一環につながるものでもあります。


一神教の世界観は、唯一絶対のの創造主としての神により世界の全てが創造されたとしてゐます。

これに対し、多神教の、殊に、神道的な考へ方では、神も人も共に力を合はせ、人の意志を神の意志とし、神の思ひを人の情としながら、この世界を未来に向けて造り続けてゐるのです。この国造りの継承が「祭」でもあり「政」でもなければなりません。

日常の家庭生活はもちろん、商売も事業も、政治も経済も「修理固成」の原点を忘れてはならないのです。これが「祭りの心」「神道的生活」の基本です。