「大きな祈り」と「小さな祈り」
神棚がありますか

あなたのご家庭には神棚がありますか。
それとも神棚はないけれども神社のお札をお祀りしていらつしゃいますか。
神社にお詣りいただいた方に、お札を差上げようとすると、「家には神棚がないので、粗末にしては申し訳ないので戴けません」とおっしゃる方が時にいらっしゃいます。
たしかに神棚を祀れば、定期的にお榊をあげたり、お米やお水をお供へをしたりするのが作法ではあります。
しかし、お供への仕方が十分かどうか、作法が正しいかどうかといふことよりも、大切なのは家庭の中に「祈り」の心があるかないかでなないでせうか。

すると、「私はいつも、家族の健康や幸福を祈つてゐる。愛情ももつてゐる。祈りの気持ちは誰にも負けない。神棚がなくても祈ることはできる」とおっしゃいます。
それも一面ではごもつともですが、それだけでは足りないものがあるのです。


祈りに必要な形

そこには足りないものは二つあります。
その一つは、「祈りの形」です。
「かたち」といふのは形式に過ぎず本質ではないと反論されるかもしれませんが、やはり形は大切です。形を通して、形を整へることによつて祈りの心を常に再確認し、確実なものとし、堅固なものとしてゆくことが出来ます。
日本古来の武道では、剣道でも柔道でも相撲でも、「礼に始まり礼に終はる」と言はれますが、礼は心を形に表したものであり、またこの形により心が表されると同時に、それが力や技の源にもなつてゐます。
祈りもまた、形から産み出される祈りの力があることを思はなくてはなりません。


祈りを共有すること

二つ目の足りないところは、「祈りの共有」です。
私の祈りがいかに強いものでもそれは一人の祈りです。
私の祈りが、妻の祈りでもあり、夫の祈りでもあり、子供の祈りでもあり、親の祈りでもあり、かうした家族共有の祈りである時に、家族の絆は一層強いものになるはずです。
「私はあなたを愛してます。あなたも私を愛してます」だけではなく、それに加へて「私もあなたも同じ祈りを、同じ願ひを共有してゐます」といふ時の人間同士の絆の深さは、一層深いものになるとは思はれませんか。

家族の一人一人がみな、祈りを共有できる、それを形で表はすことができることが、さうした祈りの形が家庭内にあることが大切なのであつて、先ず優先させるのは、毎日お榊の水を取り替へるのが手間かどうかではなくて、家庭の中に共通の「祈りの心」が存在することを、家族全員が感じることのできる形をつくることで、神棚にはその力が必ずあるはずです。

自分の祈りは大きいと自分では思つてゐても、家族みんながそれぞれの自分の祈りを共有しあつた時、その祈りはもつと大きな祈りになります。
その共有の祈りに比べれば、個人の祈りはいかに強いと自慢しても所詮小さな祈りです。
しかし、その小さな祈りが、共有の祈りに同化することによつて、大きな祈りにパワーアップできるのです。


さらに大きな祈りへ

この「私」の祈りを「我が家」の祈りとして大くさせたものを更に大くしてゆくこともできるのです。
氏神様のお札を神棚にお祀りすることは、我が家の祈りが、氏子一同の皆さんの家々と共有の祈りであることになります。
村の祈り、町の祈り、郷土の祈りを共有することでより大きな祈りになります。

この大きな祈りは、「公(おほやけ)の祈り」でもあります。


お天道さま、御先祖さま、世間さま

最近はあまり使はれなくなつた言葉に「お天道さま」「御先祖さま」「世間さま」といふ「さま」のつく言葉があります。
「さま」が付くのは大切なもの、神仏同様に敬ふべきものであるからに相違ありません。

この三つを今日の即物的な感覚で表現すれば、お天道さまは太陽ですが、太陽が象徴する宇宙と大自然の全てを指してゐると言へませう。
自然や環境問題、世界の発生につながる宇宙理論などに「お天道さま」を大切にする感覚は継承されてゐます。
「御先祖さま」は今風に表現すればDNAになりませうか。
科学的に解明されつつも、解明されればされるほど不思議も拡がる生命理論や倫理の問題につながります。
「世間さま」は社会の恩恵でせう。
現代社会が複雑になればなるほど、私たちは社会的連携なしでは生活できません。
本当は、昔より一層「世間さま」の大切さは増加してゐるはずです。
そしてこれこそが「公」の力であるはずです。


公の祈りこそ大きな祈り

この「公」の祈りこそが、「大きな祈り」です。
個人の祈りはどんなに強くても「小さな祈り」です。
小さな祈りは時として、自分勝手の祈り、わがままな祈りに陥るかもしれません。
しかし、そんな祈りであつても、「大きな祈り」の中に包まれることによつて、そのわがままさを消し去つて、ご神慮に叶ふ祈りに昇華させてくれることができるのです。
その力の源は、神社(氏神様)の祭りが古来から公の祭りとして執り行はれてきた、その「大きな祈り」の伝統に基づくところに存在してゐます。

そして、この祈りを「さらに大きな祈り」にして下さるものがあります。
それは「最大の公」「真の公」ともいへる「祈り」を共有することです。
それがなにかといふと、伊勢神宮から戴く御神札である「神宮大麻」です。
我が家の神棚に氏神様の御神札とともに神宮大麻をお祀りすることが、わたしの「小さな祈り」を最大化する方法なのです。


伊勢神宮と天皇さまの祈り

伊勢神宮には皇祖天照大神がお祀りされ、御神体の八咫の鏡は崇神天皇のとき皇居をお出ましになり垂仁天皇の時に伊勢に奉斎されたと伝へられ、皇居の賢所に祀られる御鏡とは古来、二鏡一体とされます。
ですから、伊勢の神宮の祭りは天皇陛下の祭りでもあり、その祈りは天皇陛下の祈りでもあります。
天皇陛下の祈りとは、ひたすら「国安かれ、民安かれ」を祈念する「無私」の祈りであると承ります。
私的な「小さな祈り」を祈りを一切否定した、専ら公に徹した、真の「大きな祈り」であらせられる。
かうした祈りを一二五代に亘り継承されてこられた方であることに天皇さまのご本質があり、さうした御方であればこそ、象徴と仰ぐと今日の憲法が定めたのあつて、憲法よりもこのご本質が優先することを私たちは認識しておくべきでせう。


最高の祈りを共有できる喜びを

ですから、我が家の神棚に神宮大麻をお祀りするといふことは、私たちが天皇陛下と「祈り」を共にする、共有することができるといふことなのです。
陛下の祈りはまた、皇祖天照大神の祈りでもあります。
地球上のいかなるところも太陽の光の行き渡らぬところがないやうに、その祈りの心は宏大無偏であり、世界人類に宇宙にまで開かれたものであるはずです。
この「大きな祈り」を私たち一個人の切ない「小さな祈り」に結びつけてくれる、この有難さ、その喜びをもつて、一軒でも多くのご家庭で神宮大麻のお祀りをなさつていただきたいと思ひます。
冒頭に、神棚を祀るのに作法も大切だが、まず祈りの心と姿を家庭の中に作ることだと申しました。


先づは簡単な神棚から

そのために、立派な神棚がなくても、御神札をお祀りできる「簡易神棚」があり、当社社務所にてお頒ちしてゐます。
柱や壁に掛けたり、飾り棚などに立てて置くこともできます。

「神棚がないので……」といふ前に、先づはお祀りしてみよう、そして「祈り」の心を小さなものから大きなものにする、その形を我が家にも作つてみようと、是非、お考へになつて見てください。