「思ひやり」と「思ひ上がり」
日本語と神道
神道には経典がないといはれます。
確にキリスト教の聖書やイスラム教のコーランに相当する経典はありません。
聖書やコーランは、神と人との契約の書物といふ性格を有していますが、日本古来の神道にはさうした感覚はありませんでした。
祖先以来の生活の姿、現代風にいへばライフスタイルの在り方が原典であり、それが経典に換るものでした。
そのライフスタイルを支へるものは何かといへば、広くいへば文化あるいは伝統といふものですが、より具体的には、歴史と言語(ことば)であります。
これにより、私たちは祖先のライフスタイルを伺ひ、その中から現代に必要なエッセンスを汲み取り、より良い現代生活を営むとともに、未来にこれを継承するのです。
ですから、正しい日本語を守らうとすることは、神道的生活の基本ともなるのです。
この文章は歴史的仮名遣ひで記述されてゐますが、これも宮司の日本語を守りたい信条によつてゐます。
正しく日本語を使用することは、単に古典に親しみ、祖先の文化に触れることができるといふことだけではなく、日本語の中にある人間関係、その心、その精神を知り、それを自分の生活行動に取入れることとなり、神道的生活の規範の源泉ともなります。
ですから正しい日本語が、神道の経典ともなり得るのです。

日本語のみだれ
ところが、「日本語が乱れてゐる」といふことはしばしば指摘されます。
これでは経典とはなり得ません。本当に残念なことです。
本来なら「食べられる」「見られる」といふべきところを「食べれる」「見れる」といふ、「ら抜き言葉」もその一つです。民放のタレントはこの「ら抜き言葉」の常習犯ですが、NHKのアナウンサーはこれは注意してゐるやうで、あまり耳にしません。
しかし、NHKにとどまらず、文筆家の文章にまで波及してゐる言葉に「やる」といふべきところで「あげる」といふ語法があります。

謙譲語「あげる」
本来、「あげる(上げる)」は下から上へあげるのですから、目下の者が目上の者へ対する動作の時に使用する、敬語の文法でいへば謙譲語です。
さらに明確には「差上げる」といふ言葉遣ひとなります。
「このお菓子を是非御両親に差上げて下さい」といふとき、「あなた」が「あなたの御両親」に「差上げて」といつてゐるのであつて、「あなた」が「あなたの御両親」の目下であることを発言者は意識して「差上げて」と謙譲語を使用するのです。
ところが昨今のテレビの中の会話やナレーションで気になる用例を列挙すると、「ミルクを赤ちやんに差上げて下さい。」「このドッグフードをお宅のワンちゃんに差上げて下さい。」といふやうな用例が目白押しで、さらには「植木鉢にはたつぷりの水をあげて下さい。」「フライパンが温まつたらバターを入れてあげて下さい。」などなど枚挙にいとまがありません。

丁寧語「あげる」
これらの用例は、謙譲語としては誤用となります。
お母さんよりも赤ちやんが、飼ひ主よりも犬が、さらに、植木鉢やフライパンがその使用主よりも目上となつてしまふからです。
本来なら、「植木鉢に水をやつて下さい。」「フライパンに油を入れてやつて下さい」でよいのです。ところが「やる」といふ言ひ方が、最近の人には乱暴な言ひ方のやうに思へる感覚が生じてきて、丁寧な言ひ方として「あげる」が使用されるやうになつてしまつたのです。
「やる」が乱暴と感じるなら、「犬に餌を与へる」「赤ちやんにミルクを与へる」でよいのです。
依頼型の文章なら「犬に餌をお与へ下さい」「赤ちやんにこのミルクをお与へになつて下さい」となるところが、「あげる」が使用されてしまふのです。

「やる」の用例
「やる」といふ言葉は、本来は別に乱暴な、ぞんざいな言葉ではありません。
平安時代の貴族の邸宅であつた寝殿造の庭に作られた水の流れは「遣り水(やりみず)」と呼ばれました。
近代に至つても、蚊取線香を「蚊遣(かやり)」と称するなど、優雅に感じられる言葉のなかに「やる」が活きてゐます。
あるいは戦国時代の重要な武器に「槍」がありますが、「やり」といふのも「やる」の名詞化したものです。
ところが、「教へてやる」とか「食べさせてやる」といふやうな表現に、押しつけがましさが感じられて、「教へてあげる」「食べさせてあげる」と使用されるやうになつたのでせう。
この「動詞の連用形+助詞て+あげる」は、広辞苑でも動詞の丁寧表現として記載してゐます。
それが最近は「水をあげる」や「油をあげる」といふやふに、「やる」をすべて「あげる」に交換してしまふ使用法が広まつてしまつたのです。

「思ひやり」はどこへ
この「あげる」の誤用については、是非注意したいものだと思ひます。
なぜなら、「やる」がすべて「あげる」に入れ替はつてしまふととんでもないことが起きます。
それは「思ひやり」が「思ひ上がり」になつてしまふからです。
「思ひやり」が消滅して「思ひ上がり」ばかりになつてしまつた世の中に私たちは暮していけるでせうか。
しかし、最近の新聞、テレビで報道される事件のニュースには、本当に「思ひやり」といふことを知らずに、教へられずに育つた人間の仕業ではないかと思へるやうな事例がしばしばあるのは残念でなりません。
「思ひやり」の言葉はまだなくなつてはいないと信じます。
しかし、日常会話のなかで、無意識にも「やる」を失つていくうちに、いつしか本当に「思ひやり」も失つてゐることになつたらどうしませう。
言葉には古来、「ことだま」があると信じられてきました。
流行語に知らずに染つてしまふ間に、大切な精神を失つてはならないでせう。
言葉遣ひが大切なことの基本はこのことにあるのです。