神道の基本を一言で表現するには?



例へば、キリスト教は「愛」の宗教であるとか、仏教の基本は「悟り」「無」あるいは「慈悲」などと、その宗教の特色を一言で表現することがあります。
もちろん、たった一言で宗教のすべてを表現することはできないでせうが、それなりに特色や、他宗教との相違点を比較的解りやすく表現する方法ではないかと思ひます。
このやうに、神道を一言で表現するとすると、どのやうな言葉、キーワードで表すことができるでせうか。

神道には教義とか経典(教典)がないと言はれます。
たしかに明文化されたものや、これが教義であると固定的に定められたものはありません。
ですからこのやうな質問に答へるにも、これが唯一の答へといふものが定つてゐるわけではありません。
いく通りもの答へ方があるとお考へいただいてよいのですが、いくつもある答への中の一例として、筆者の個人的な感覚ながら、以下の様な表現で神道を表してみたいと思ひます。
筆者は、神道のキーワードとしては「いのち」といふ言葉が適当ではないかと考へてゐます。
神道といふものの基本が、生活の中にこそあることは、これまでも様々な事例をあげてご説明してきました。
生活といふことを突き詰めれば、「生きる」ことであり、「いのち」こそが究極の要素となりませう。

私達は、一人一人が「いのち」を頂いて生きてゐます。
この「いのち」が、誰から与へられたものか、どこにつながってゐるものなのかを考へながら生きることが神道的な生き方の基本なのではないでせうか。

ですから「いのち」といふ一言に、少しばかり言葉を補足してみれば、「いのちのつながり」あるいは「いのちの共有」といふことになります。

よく「御先祖様から戴いた生命」とか「産土の神様」のはからひによる生命とかいはれるやうに、私達の「いのち」は、遠い先祖や氏神様につながってゐると信じ、大切にすることが第一歩でせう。

この第一歩を基礎に、さらに考へてみれば、「いのち」は祖先につながるのと同様に、子孫にもつながってゐるはずですね。
今日、生れたばかりの赤ちゃんも、将来は親になり、数百年後には何千人、何万人の祖先になる可能性をもった「いのち」の持主なのです。

ですから、自分の「いのち」は自分のものであって、自分だけのものではない。祖先とも、そして、まだ存在もしない子孫とも共有してゐる「いのち」なのです。

目に見えぬ祖先や子孫とも共有する「いのち」なのですから、現実の存在である、親子や兄弟、家族が「いのち」の共有者であることは申すまでもありません。

さらに、私達は社会生活のなかで、世のさまざまな人々の御蔭をかうむりながら生活してゐます。
農業、漁業、商業、工業とさまざまな職業の恩恵のもとで毎日の生活が可能です。
ですから、町内、都道府県、国家、世界と規模の大小にかかはらず「いのち」の共有関係にあることはまちがいないでせう。

さらには、自然や環境とも「いのち」を共有していることもお気付きのとほりです。

しばしば、人の命は地球よりも重いとか言はれます。
このことは、単純な個人主義の尊重を意味するのではなく、一人の「いのち」の持つ大きな可能性と無限のつながりとを併せて考へてこそ、本当の意味が理解できるでせう。

最近の若い人のなかには、「他人に何の迷惑もかけてないのだから、自分がなにをしようが自分の勝手」といふ風潮がありますが、かうした「いのち」の大きなつながりに気づいたなら、ただ欲望にまかせた好き勝手を反省することができるのではないでせうか。

ところで、かうした「いのち」の壮大な共有関係の、いはばコントロールセンターとでもいふべきものが神社なのだと考へることもできるのではないでせうか。
そして、この共有する「いのち」によつて、より豊な生活がうみだされることを喜び、それを形に表し、感謝するのが「お祭り」なのだと思ひます。