人の「いのち」
今回のテーマは「人のいのち」です。
私たちはひとりひとり「いのち」を戴いて生まれてきます。
そして必ず死を迎えます。
生きている間、殊に近代・現代の人間は基本的に自由です。
学問、思想、職業、居住などなど様々な自由が与えられています。

しかし、この自由な人間が自由にならぬものがあります。
その最大のものは自分のいのちではないでしょうか。
生まれる時からして、「この時代に、この親から」と自分で望んで生まれてきた訳ではありません。 気づいた時には生まれた後です。
また、死ぬのも自由ではありません。
思いもよらぬ事故や病気で残念なことに若くして亡くなる方もおられます。
高齢の方でも、突然の訃報に驚かされることもあります。
また、病弱でも長生きされる方もおられます。
要するに自分の寿命は自分では決めることはもちろん、計り知ることもできません。
自分の「いのち」というものは、自分のものでありながら自分の自由にならないのです。

一見、自分の所有物のようでありながら、自分の自由にならず、しかも簡単に失う訳にはいかない大切なものというと、貴重な預かり物に例えることができるでしょう。
自分の小遣いなら、何時、何に使おうと自分の自由です。
しかし、人からの預かり物で、何時かは返さなければならないものならば、今は自分の手許にあっても、勝手に処分できません。
殊に大切な方からの貴重な預かり物ならばなおさらです。

こうしてみると「いのち」というものは、まさに預かり物だということができましょう。
御先祖様から伝えられ、産土の神様のお図らいにより、両親を通して授けられた肉体の上にお預りしているということです。
そして、この関係は子供や孫にも伝えられます。

駅伝のレースでは走者から走者へタスキを伝達しますが、親から子への「命」の伝承はこの駅伝競走にも似てゐます。
駅伝の各走者の走る距離には、長い区間や短い区間があります。
平坦な区間やアップダウンの多い区間もあります。
長生きの人や短命の人、波瀾万丈の人生や、比較的平穏で平凡な人生など人の人生は様々です。
トラック競技のリレーのように距離が一定ではありません。
でも、走者はタスキを無事に次の走者にリレーできるよう精一杯走ります。
自分の「いのち」を精一杯全うするのはその姿ですね。

ただ、実際の駅伝と違う所があります。
それは、今、走っている自分にとって、次の走者にタスキを渡すべき中継点がどこにあるのか、自分に与えられた区間の距離がどれだけなのか、自分には判らないことです。
また、駅伝競技では第一走者から最終走者まで一本のタスキが伝えられますが、いのちの伝達は両親から二本のタスキが渡され、それが自分の肩に掛けられたときに一本に融合してゆくとみることができましょう。
また、複数の子孫に伝承してゆくということもあります。
これも相違点の一つでしょう。

この相違点と逆に、間違いなく共通した点を挙げてみましょう。
駅伝走者は、次の走者にタスキを渡し終えたあと、何を考えるでしょうか。
目標どおりに走れた人には満足感がありましょう。
実力を発揮しきれなければ無念の思いもありましょう。
しかし、いづれにしても、後を受け持つ走者たちに、それぞれ全力を尽くしてほしいという、応援の気持を強く持たれるのだと思います。
御先祖様の御心というのは、この気持に似ているのに違いありません。 目には見えなくても、私たちを御先祖様は応援してくれています。
御先祖様からお預りしたいのちのタスキを持って、精一杯生きている私たちを。
そして、私たちはこの「いのち」を清く正しい豊ないのちとして子孫に伝えてゆかねばなりません。