「さくら」に見る日本の心(お花見とお祭り)
月次祭(ついたち朝まいり)四月一日の講話より



月次祭に皆さんご列席ありがとうございました。
暖かくなって、だんだんお出かけもだいぶ楽になりて、昨日が桜の開花宣言が出てましたね。
ここ二、三年、桜が咲くのが早い時期が多かつたので、今年は平年より一寸遅めのやうですが入学式などには恰度よい頃合になりました。

桜が咲いたといふと、上野公園が賑はつてとかの報道もテレビや新聞に必ずといつてよいほどされますが、「お花見」というのがつきものですね。
落語の中にも長屋の八つぁん、熊さんも花見をする話が出てきます。

花見といふと、お酒を飲んで、歌を歌つて、楽しんでと、いはば娯楽のやうに現代人は考へえます。たぶん江戸時代ころから花見は人々の娯楽だつたのでせう。

ところが、このやうに、お酒を飲んで、歌を歌つてといふのは、これは花見に限らないことですけれども、こんな伝統といふか習慣があるものといふのは、大体お祭りと繋がつた由来があるものと見て大方間違ひないのです。

お祭りといふのは、神様をお招きして、神様と人間とが出会つて、そこで心を通はせて、その喜びの中で、お酒を飲み歌を歌ひ、踊りを踊つて、といふことが古来の基本的構造になつてゐます。
通常、お祭りの儀式の中では、そのお酒を飲んだり歌つたりの部分を直会(なほらひ)と言つてゐます。

大体、町内のお祭りでも最後の方には必ずみんな集まって酒を飲む習慣がついているわけです。
これを「鉢払ひ」「鉢洗ひ」といふ言ひ方をすることもあります。
ですから、お正月の行事にしろ、御盆の行事にしろ、日本中の昔からの色々な年中行事があり、飲食歌舞の習慣のあるものも多くありますけれども、その中でも、「お花見」といふのもには殊にさういふ要素が強く認められます。

神様に出会ふたといふことは、どの神様と、何時、どこで出会ふかが肝心なことになります。
昔の人の生活条件からすると、春の、これから田づくりを始める、そうした時期にですね、一年間の豊饒を、稔りをもたらしてくれる神様に、その神様が春になって活動を始めるその時期に、お迎へして豊作や子孫繁栄を祈りたい。
その神様と出会へる最も典型的な場所が桜の花の下なのです。

その神様と出会ふために花の下へ行き、そして神様と一緒に宴会をする。そこにはお祓ひだとか、祝詞だとか玉串奉奠だとか今日の神社でのお祭りのような、儀式らしい儀式はないけれども、むしろ弥生か縄文の昔に遡るやうな古い形のお祭りの姿が残つてゐるんです。

お花見以外にも、そのやうに野外に出て何かをする習慣というのは他にもありました。
例えば、百人一首の中に「春の野に出て若菜摘む」という「春の野」といふのが出てきますよね。
万葉集には額田王の「野守は見ずや君が袖ふる」といふ歌がありますね。
これは春ではなく実は夏の歌なのですが、野を守つている番人が見てゐるよ、あなたが袖をふってゐると、浮気してゐると疑はれますよ、とそういう内容の歌だとされてゐますけれども、大勢で野原に出てさうした行楽をする行事があつたことが判ります。

このやうに春から夏になると、野原に出る行事がありました。
秋には紅葉狩もありました。薬草を摘むためとか、そういう習慣だと古典の授業では一般に説明されますけれども、このやうな野外行事の基本は、特に春の野原に出ると、萌えてくる草花や、その中にこもっている大自然の一年の稔りをもたらす大きな霊気があるわけで、それを身にふりつける、それと一体になる。それにより自らの生命を若返らせ活性化することでした。その喜びがお祭りになるわけですね。

殊に、桜といふものの場合ですが、「さくら」の語源説には様々なものがあり、どれが正しいかは一概には言へませんが、その語原説の一つに、「さ」といふものの「くら」が「さくら」なんだといふ説があります。「くら」といふのは漢字で書くと「座」といふ字を書きます。
座席の「座」です。馬の上の座席が「くら(鞍)」です。
それから神様がお座りになるところを御神座と言いますが、これを古い言葉で「くら」といひます。すると、「さ」というものがいらつしやる「くら」いふう風に考へられます。
それでは「さ」といふのは何かといふことになります。

「さ」といふ字が頭につく言葉には、田植えのときの用語にたくさん「さ」がつきます田植で植ゑる苗を「早苗」(さなえ)と言います。
それから、それを植ゑる女性を「早乙女」(さをとめ)と言ひます。田植ゑを終へた祝ひの行事を「さなぶり」といひます。
これは「さのぼり(さ昇り)」で田の精霊である「さ」が天へ登る意味だといはれます。
また「さ」には、吉永小百合の「さ」のやうに「ゆり」の上に「さ」がつく、田や米以外の草花につくものもあります。
このやうに自然の草花の清らかな美しさ、その本質の無垢な清浄さ、その根源である自然の精霊、中でも豊かな稔りの象徴である米つくりの力の元となる魂、それを表してゐるのが「さ」だといはれてゐます。

さういつた、自然の中の神聖なもの、生命の根源に活力を与へる見えない力、さういふものが、桜の花の咲くときに大地に降りてくる。
そして、その魂といひませうか、精霊そのものの鎮まる「座」になるのが「さくら」といふわけです。

桜が開くのはその精霊が降臨した証しとなります。
その桜の花の下、すなはち精霊の降りてこられたその場所に行つて、その精霊と私たちも一体になる。かういふ昔ながらの、大自然と人間とが一体になる、花を通じて一体になる。
そしてその生命力で私たちが生かされてゐる。
さういふ気持ちが、おそらく、この花見の宴の中にも、今でも無意識の中にも日本人の原体験として生きてゐるんだと思ひます。
生きてゐるといっても、ほとんどの人がそれを知らずに、仲間同士で一緒に行く、その連帯感といひませうか、長屋では長屋の人間同士、大家さんと店子と一緒になる、会社の花見だと、新入社員も含めて部長も課長も一緒になる。
さういふ連帯感、地域の隣組なら隣組で、友達同士は友達同士のそのつながりを深めることをしてゐます。
その原点にはかうした精霊と一体になることとのつながりの中に、真の連帯感があつたのです。

平安朝の雅びの時代から、歌に詠まれた桜ですが、昨今の若者のヒット曲にも桜はたびたび登場します。
無意識の中にも、今の若者にも、祖先の思ひ、心といふものは脈脈と流れてゐるのです。
神道を学ぶこといふことは、その無意識の心を、少し見えるところに引出す作業なのかもしれません。