「東屋」と「総宜楼碑」

「東屋」と「総宜楼碑」

千代本

(明治初期の鶏卵印画紙に着色した千代本ほか瀬戸橋際の料理屋の写真)


毎年の5月15日の例祭には「おわたり」といって、御本社のご祭神が御神輿で琵琶嶋(弁天島)に出向かれ、琵琶嶋神社前で神事があります

この琵琶嶋神社の横に石碑があります
これが「総宜楼の碑」です
この石碑はもと「東屋」という料亭の庭にありました

東屋は「江戸名所図絵」にも描かれていますが、瀬戸橋の西側(瀬戸町内側)にありました
安政の大火の後、洲崎に移転しました
伊藤博文が憲法草案を練るために宿泊したというのは洲崎の東屋となります
戦後、廃業しましたが、碑は痛んだ部分を修復して琵琶嶋に移され今日に至ります

江戸時代の漢詩人として名高い大窪詩佛が文人達とともに東屋に宿泊し、ここを「四時総宜之樓」と名付け、扁額を掲げました
文化3年(1806)春のことです
「江戸名所図会」に描かれた東屋の二階の軒下にはこの扁額があります

秋に詩佛はまた八景に来訪します
同行者は佐波淡齋ほか六名の詩人や絵師などです

佐波淡齋は桐生の絹商人で漢詩人でもあります
この時に淡齋が作った詩を、詩佛が書き、江戸の石工で名高い廣群鶴に彫らせたものがこの「総宜楼の碑」で、東屋の庭に置かれました

総宜楼碑

詩の内容は、銀の鱸や紅の蟹が目にも美しく、さらに良い地酒もあって鯨飲するほどに酔い潰れてしまったが、夜半の雨の音かと聞いて眼をさますと、瀬戸橋の下を流れる退潮の潮の響であったと知って、たちまちに詩ができていたというようなものです

豪商であり、詩人でもあり、書画工芸のパトロンでもあった佐波淡齋のやうな風流人が、たびたび金沢八景に来訪してゐたのです

瀬戸神社に大絵馬その他を奉納してゐる神田佐久間町の森川五郎右衛門も、そうした豪商であり文化人でもあった人でした

森川五郎右衛門が谷文晁と酒井抱一に描かせた孔雀牡丹図と秋草花卉図を佐波淡齋が譲り受け菩提寺の浄運寺に奉納したものが現存してゐます
両者の交際があったことが知られます


瀬戸橋

(「江戸名所図会」の瀬戸橋・東屋)


幕末に東屋を訪れた著名人に徳川慶喜があります

水戸徳川家から一橋家の養子になった慶喜の行動を記した「慶喜公御言行私記」にその経過が残っています
巳年五月十八日とありますから安政4年(丁巳・1857)のことです

武州金澤まで「遠馬」をすることとなりましたが、慶喜公は馬術は上達されてるので、払暁に出発されれば十分なのだが、お供の者に未熟なものもあるので、早めの前夜八つ時(午前2時)に出発されました
芝あたりで小雨が降り始め、次第に強くなってきました
保土ケ谷にて夜も明けましたが、雨休みもせずに、金澤まで六里は坂や峠で泥濘がはげしいので、馬でなく徒歩でゆくことになりました
金澤に到着すると、勝景御遊覧の間はしばし雨も止んでいたのですが、お弁当所の「東屋」に着くとまた降り出し、さらに強雨となって、このあと夜にかけては暴風雨となり、帰り道の大森・高輪あたりでは路上に波浪が打ち上げる状況であったとのことです

「東屋」でお弁当の時に、家臣たちは、既に御遊覧は済んでをり、保土ケ谷までは駕籠で行かれるよう進言したのですが、駕籠に乗るようでは講武の意もむなしくなり本意に背くとおっしゃり、家臣ともども徒歩で保土ケ谷に向かいました

保土ケ谷からはまた乗馬ですが、御家老にはそこでお供御免勝手次第に帰るように申しつけ、公は暴風雨の中を「下の帯」までお濡らしになって、夜四つ時(午後10時)にご帰館になられたということです

お弁当の前に勝景御遊覧とのことですから、九覧亭や琵琶嶋をご覧になり、そして瀬戸明神参詣もされたでしょう

このやうに江戸時代の後半には、侍も町人も含めて、金沢八景を訪れる人が多かったのです

「東屋」「千代本」「扇屋」と三軒の料亭があったことが当時の絵図に表されております


瀬戸橋

(「武昌金澤八景之図」(金龍院蔵版)の部分)