会報かしはで(第一九号 令和三年三月十五日)
「日本書紀」と神道教学
平成と令和の御代替はりを経験し、神社関係者はその間の教学的な対応に課題は無かったかを検証すべき時期がきてゐるが、その活動はいささか不十分に感ぜられる。そこに新型コロナが重なり、一層困難な局面を迎へてゐる。
ポストコロナとかウイズコロナといはれる「新しい生活様式」において、神社と地域社会ないしは国家をどのやうにとらへてゆくか、現代の神道教学としても大きな取り組みが必要である。
しかし、このやうな危機感のある議論が希薄であると感じてゐるのは小生だけであらうか。
「神社」とは我が国の社会(氏子区域や地域社会・国家、皇室との関係もふくめ)のなかで、如何なる存在か、どんな役割を果たすべきかを、常に時代の変化や状況に即して、時宜に応じた議論をしてゆくことが必要であり、それが神社を護持してゆく基盤となるものであると考へられる。その教学の構築のための活動、手順、方法はいかなるものであるべきか、その一端に関する私見を述べさせていただく。
昨年が日本書紀編纂一千三百年にあたることから、一昨年の神社本庁評議員会でも、教化広報活動を活発に展開すべきことが議員提案となり、その処理結果が昨秋の評議員会にも報告されてゐるし、これの呼応して、神社庁や個々の神社の教化活動にもさうしたテーマが盛り込まれはしたが、なにか最近の教化、教学の活動は、表面的ないし表層的なイベントの消化に偏ってはゐないではなからうか。
きめられた「お題目」のもとで、集会を開いたりポスターを作製しての広報宣伝にのみ終始してしまひ、その内実を議論しあふことが少なくなってゐるやうに思はれる。
それでは「日本書紀」を教学するといふことはどういふことだらうか。
筆者は大学は史学科だったので、「日本書紀」は「神典購読」ではなく「古代史の演習」としての授業をうけた。「続日本紀」とともに坂本太郎先生や林陸郎先生の講義で学んだ。史学科の講義では「神代巻」はほとんど読まなかったので、神道教学的な理解は自己流かもしれない。しかし、後述するやうに、自己流であることが、意味のあることだとも考へてゐる。
この「日本書紀」の神代の編纂・記述の大きな特色は、「一書」を多数記録してゐるところにある。
建国記念の日が制定されたのが昭和四十一年であったと思ふが、紀元節復活運動の反対派も全国の大学の歴史研究者には多い時代で、記紀神話は天皇制確立のイデオロギーだとするやうな言説が、マスコミも含めて広く見られたなかで、坂本先生が、「一書」を多様に掲載する態度をみても、決してそのやうなイデオロギー論には当たらないといふ趣旨のお話をされたのを記憶してゐる。
現に「三大神勅」も「本文」ではなく「一書」の中に記述されてをるのである。神話・伝承の多様性を書紀編集者は極力尊重する態度をとってゐる。これは多神教たる神道の神観念においては、唯一神のもとに真実が集約されるのではなく、真理には多様性があることを基盤とするものであることを表明するものでもある。
当然、今日の神道教学においても、この態度は引き継がれるべきものである。
本庁草創期において「神社教案」「神社連盟案」が対立した折に、「神社教案」には管長の教義決定権が明示されてゐたことに対して、多様な祭神をもつ神社を統合する組織には不都合な規定であるとして否定され、さらに「敬神生活の綱領」制定過程においても、これを実践綱領であるとして教義ではないとし、本庁は制定教義を持たないとしてきた歴史もあるやうに、本庁教学の重要な要素である。
若干、補足しておくと、小野祖教先生は、「制定教義」は持たないとしつつ、「無教義」論はとられなかった。そして「潜在教義」としての教義存在を認められてゐる。「制定教義」とは国家ないし教団の権威が特定の教義を正統であるとして認定し、教団組織に徹底させるものであって、神社ないし神道の教学としては歴史的にも存在しないとしたのである。
やはり本庁草創期に、「経典制定論」があったときに、葦津珍彦先生がこれを否定するときに、御歴代の天皇のご業績として国史の編纂、勅撰和歌集の編纂など、文学・歴史の編纂作業はなされたけれども、神道経典の編纂などは一切仰せ出されたことはない。天皇様がなさることもなかったことを、敗戦の混乱のなかで、間に合はせ作業で進めたところでそれは「経典」といへるものではない。仏基の経典は歴史的な成立過程をみれば、数百年の時代を経ての産物であると論じて、これを否定されたことにも、共通する根拠があるとみられる。
さらに近年(といっても昭和五十五年だから、筆者からみると近年でも、今の精鋭年齢の皆さんには昔かもしれないが)も、この姿勢は、「神社本庁憲章」の制定過程においても再確認されてゐる。
この多様性の教学を具現化する方法はいかがであるかといふと、結局は「集ひに集ひ、議りに議り」して得られた様々な意見を集積することにほかならない。「一書」を集積した「日本書紀」の精神はここに見られる。
この作業が基盤となって、神社は神社本来の姿を追求し、社会的・国家的役割を果たすことを目指すことが可能となるのである。
そのために、神社のあるべき姿、役割、機能はいかなるかを常に考察し、検証しつづけねばならず、この作業こそが、神社の連合体としての本庁が関はるべき教学の根本であり、当然ながら、その本庁といふ機構のあるべき姿についても常に問はれ続けられなければならない。
この問ひ続ける作業が、昨今は、神社ないしその統合機構としての本庁や神社庁の組織機能の運用上の制度的な確認作業にとどまってしまひ、教学的なものに深められてゐないと小生には感じられる。
その結果、教学的な「議りに議り」が縮小し、事務的命令系統に準拠することが主要とされる傾向にあると危惧してゐる。
神道の教学は、神集ひに集ひ、神議りに議るごとく、神職が自らの神学を述べあふなかに、萌えいづるものだと考へる。
若い人材による自由闊達な意見交換から、生命力のある新たな神道教学の萌えあがる営みがなされ、未来に向けて、国際的な、また科学技術、ことにデジタル的な思考(思想のみならず政治経済の面でも進行)がすすむなかでの神道・神社の役割が描き出されてゆかねばならない。
これができれば、神社の活動が活性化し、希望に満ちたものとなるはずである。
度会神道も吉田神道も、儒家神道も復古神道も、さらには両部神道もみな神道の「一書」であらう。柳田・折口の学もこの「一書」に加はるであらう。現代の神道学の諸論文や各種の論説も当然、新たなる「一書」の集積であるが、そこに自己流かもしれなくとも、わが「一書」を重ね、さらに各神社のご祭神の御神徳に準拠する教学を勘案しつつ、そこに自ずと表れる「本文」、それも小野先生風にいへば「潜在本文」を構築することが現代に必要な教学活動となると考へる。この作業を、地道に実践してゆくことを試みてゆきたいものである。